27 Jan 1997

恐怖のボクサー犬

 かつて東京在住時に私は、とある広大な無人廃墟施設を警備車両で巡回する警備員をしていたんですが、犬を連れ常習的に忍び込むある侵入者に悩まされていました。廃墟への好奇心で侵入する普通の散歩者ならうるさいことはいわず「ハイハイ立入禁止ですよー」と退去いただくだけなのですが、この侵入者は足跡が人間の手ほどもある巨大なボクサー犬を連れ込み、中が無人なのをいいことに綱を放し遊ばせているという、いわば勝手にドッグラン親父だったのです。

 しかもこの犬が獰猛凶悪で、私の同僚と警備犬(気のいい中型雑種)が巡回中追いかけられ、命からがら警備車両に逃げ込み難を逃れるという大事件まで発生していたのでした。さいわい人犬とも怪我はなかったものの、私たちは憤慨していたのです。

 その事件からしばらく後のある日、私が警備車ダイハツ号でブイーンと巡回していると、前方から恐ろしい形相でこちらに駆けてくる巨大なボクサー犬を発見。――うわ出たこいつか! と車を止めると、犬は迷うことなく車に襲いかかってきました。運転席の閉まったウィンドウを爪でかきむしり、それが開かないと分かると怒り狂ってドアミラーに食いつきます。そしてウガウガと首を振り、ついにミラーを噛みちぎってしまったのです。ギャー!! まさに狂犬。

 おのれバカ犬人間を舐めるなよとクラクションを鳴らし、クラッチをつないで車を前後に揺らします。犬はそれにも全くひるまず攻撃を続行し、今度は車のホイール部の泥除けゴムに噛みつきグイグイと怪力で引っ張りまくるのです。うわーやめろ、取れちゃう取れちゃう、ふざけんなよマッドドッグ!!

 そのとき離れたところからピィーッと指笛を鳴らす人影が。――狂犬はさっと攻撃を中止し、その人影に駆け寄ります。あいつが飼い主か! おのれ許すまじと車を発進して追いかけましたが一足遅く、犬と飼い主はフェンスの隙間をくぐって逃げていきました。

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 許せんといきり立った私は施設出口へと大急ぎで車を走らせ、敷地外周をぐるりと回ってその侵入箇所へ。すでに人犬の姿はなし。しかし時間的に考えて遠くへは行ってはおらず、あたりの住宅地のどこかにいるはずです。わたくし警備員はそこで、路上で遊んでいる子供たちに聞き込みを行いました。「あのねキミたち、大きな犬を見なかった?」

 すると何人めかに、「○○さんちの犬じゃないかな」と気がつく敏く賢い少年がいたのです。「あそこに大きくて怖い犬がいるよ」。それだ! 私は少年にその家を教えてもらいました。

 見ると鉄格子のはまった凶悪な雰囲気の犬舎を持つ家。犬はいません。呼び鈴を押しても返答はなし。玄関回りには「日本警察犬連盟会員」「猛犬注意」などのサインが誇らしげに貼ってあります。俺が追ってくるのに気がついて、別の場所で時間をつぶしてるのだろうか。それとも犬違い? 待つしかないか…。

 そこで冷静さを取り戻した私は気が付きます。もしここで待っていて、まさにあの犬が帰ってきたらえらいことになるではないか。俺がガブガブガブ・プシャーとやられてしまうに決まってるではないか。直接対決は避けねば。

 そこでその家の住所と改札名をメモに取って警備事務所に戻り、当時はまだ存在した電話帳という便利な個人情報満載ブックでその家の電話番号を調べ、頃合を見計らって電話をしたのです。

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「もしもし。ボクサーを飼ってらっしゃる○○さんですか?」
「はいそうですが」
「さきほど××施設構内で襲われ車を壊された者ですが」
「……」
「もうすでにお宅の住所氏名はこちらの手元にありますから、これから警察と保健所に連絡しますので。では――」
「ちょちょちょっと待ってくださいよ、それだけは勘弁してください!」

 ───かかったなオロカ者め。

「一度ならず二度までもこちらの警備員を襲ってくれましたね。どういうつもりなんですか?」
「……」
「怪我でもしたらどうするんですか?」
「…なんのことだかよく分からないんですがねえ…。うちの犬は警察犬訓練コンテストでいつも上位を取る、優秀な犬なんですよ。そんな」

「だから人を襲う訓練してるわけでしょ、襲われたんだからわかりますよ! そうやってとぼけるなら議論の余地はないですね、保健所に犬を引き渡す支度をしてお待ちください。では」
「ちょちょちょっと待ってくださいよ、それだけは勘弁してください!」

 という、どうにも呆れた飼い主だったのでした。まあ予想通り。

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 ともあれ、今後その犬が放し飼いされているところを一度でも見かけたらこちらは即警察に通報すると通告し、壊された車の全額弁償を約束させ、事後処理は会社の法務部と保険会社に引き継いで一見落着となったのです。そしてさいわいそれ以降、その犬を見かけることは二度とありませんでした。めでたしめでたし。